箱男 感想

感想

一番好きな小説は安部公房の「箱男」です。この作品が映画化されると聞き、楽しみに待つこと数ヶ月、いよいよ公開されたので観てきました。その感想。かなり適当なことを書いています。原作も映画を観る前に読み直しましたが、間違っている点があったら申し訳ございません。

※ネタバレ注意※

映画化に伴う変更点>

映画化に伴う変更点

 まず「箱男」という作品は非常に難解であることで知られます。一応、話はダンボール箱を被って街をうろつき生活する箱男の手記という体で進みますが、視点が入れ替わったりストーリーには関係ない人物の話が突然挿入されたりと、読んでいるうちに頭がこんがらがる構成となっています。

 そのような作品ゆえ映像化は不可能と言われてきたそうですが、今回様々な経緯があり映画化に至ったそうです[*]。インタビューにもありますが、原作者である安部公房からは娯楽作品にしてほしいとの要望があったそうで、たしかにワッペン乞食との戦闘や箱男同士が対峙するシーンなどはシュールですが激しくもあり、映画全体でもストーリーがわかりやすく再構成されていました。

 ポイントはここで、原作ではよくわからなかった(明示されていない)点を監督が独自に解釈し、バラバラであった原作での手記がひとつのストーリーとして繋げられています。たしかになるほど、「そのように解釈すれば原作中のあの文言に意味が与えられるな」という設定の連続で、思わず頷いてしまった点もいくつかありました(そのような解釈を与える是非についてはさておき)。設定変更が行われている箇所も多く、一番大きな変更点は舞台となっている時代でしょう。原作は1973年に発表されその当時がおそらく舞台となっていますが、映画では現代の物語となっており、監視カメラやパソコン、筆跡模倣装置(?)まで出てきます。それに伴って、作品の軸となっているテーマも若干変更されているように思いました。

「見る・見られる」の先>

「見る・見られる」の先

 原作の軸となっているテーマのひとつは「見る・見られる」の関係です。箱男はダンボールを被り街に溶け込んで小さな窓から他者を見る。街の人は箱男を気に留めません(実際にいたら気に留めるのでしょうが)。つまり、箱男は「見る、覗く」存在として書かれています。映画でももちろんこのテーマは引き継がれているのですが、映画という媒体の特性上、箱男は常に映画撮影用のカメラに「見られている」。つまり観客に見られる存在です。劇中では監視カメラにも見られており、原作の、「ダンボールに空けた穴から一方的に外界を覗き記録する存在」ではなくなっています。つまり言い換えれば、原作の箱男が見る存在でいられたのは、小説という媒体で手記という形式をとり、箱男の主観のみで小説世界が構成されていたためと考えられます。読者は箱男が箱の中から見た世界を読むことしかできず、箱男の主観しかわからない。しかし映画では箱男をとりまく人物や風景などを映画撮影用のカメラを通じて観客は見ており、箱男はただの登場人物の一人に過ぎません。

 このように映画「箱男」では箱男が他者を「見ている」のを観客が「見ている」。「箱男が見る」という事象と鑑賞者の距離が小説よりも遠いのです。それゆえに映画では、主観に依存した世界の不安定さが原作に比べ弱まっていました。よって映画では、原作のもう一つのテーマでもある「書くこと」を「見ること」に合流させる手法をとっています。映画中に、「重要なのは箱の中に入ることではなかったんだ、箱の中から見たことをノートに記録することだったんだ」という趣旨の発言があり、これを境に物語の中心は手記に切り替わっていきます。手記は主観のみからなり、その内容を映像として流すことで、何が実際に起こったことなのか観客の混乱を招く構成(=小説に近い構成)となるのです。小説では「書く」という行為の性質についてはあまり言及がありませんが(書き手と視点の性質には多くの言及あり)、映画では「書くこと」の背景にある、「見たものを関連付け見えない部分は想像で埋める」という性質(妄想すること、想像すること、物語ること)を強調する構成となっていると感じました。そしてこの性質が最後のオチ(?)にまでつながっていきます。

箱男と現代人、「推し、燃ゆ」>

箱男と現代人、「推し、燃ゆ」

 小説でも映画でも、最後箱男は目張りした暗い家の中に看護師である「彼女」と閉じこもり、世界全体を「箱」にして暮らします。暗闇の中、見ることも見られることもない世界であることが小説では強調されますが、映画では撮影の都合なのか完全な暗闇ではなく、箱男である「わたし」は「彼女」を見ています。その結果、結局手記を書くことをやめられず、それを見た彼女がどこかへ消える、という結末となります(彼女が消える結末は小説と同じ)。

 映画の最後には「箱男はあなただ」と明言され(これは正直蛇足だと思う)、エンドロールには着信音が挿入されるなど、この映画では観客が箱男であり、また現代人の必須ツールであるスマホが「箱」となっていることを強調したかったのだと思います。箱(=スマホ)の中に閉じこもっても、その姿を見ている他者がその箱の中には存在すること(SNSでは誰かとつながらずにはいられないこと)、暗い箱の中なので、相手を正確に「書く」ことはできず、見えない部分は想像で埋めるしかないことを、最後の目張りの家で表現しているのではないでしょうか。

 このようなテーマは、第164回芥川賞を受賞した「推し、燃ゆ」という作品の中心でもあります。主人公の少女は他の人が普通にできることができず、「推し」を推すことでなんとかつらい現実に耐え生き延びています。彼女の推し方は「解釈すること」。日々、推しである男性アイドルの発言をすべてかき集めて分析し、ブログ上でその言動や行動を考察し、推しを理解しようとしています。しかし推しが人を殴って炎上し、芸能界を引退、そして結婚。結局主人公はなぜ推しが人を殴ったのか、誰と結婚したのかわからないまま物語は幕を閉じます。箱の中から見たものを繋げ、見えない部分は想像で埋め解釈しても、結局見えないものは見えない。一方的に見ることは消費であって、理解することとは別物である。「わたし」の前から「彼女」は消える。

最後に>

最後に

 現代人は技術の発展によって皆箱男になっている、というのがこの映画の主要テーマの一つだと思います。もちろん、小説にあるような見る・見られることと存在・不在の関係など、より哲学的なテーマも内包しているはずだけれど、匿名で見ることも見られることも当たり前になってしまった現代で映画化するにあたって、よりコミュニケーションや物語ることを強調しているのかな、と感じました。

 高専生の頃に箱男のコスプレをした身としては、箱の再現度にも驚かされ、全体的に楽しめました。

おしまい。

参考>

参考

[*] https://wired.jp/article/the-box-man-gakuryu-ishii-interview/